なりたち

劇団創造市場は昭和45年,市内にある「ROCK」というJAZZ喫茶で生まれました。昭和45年というと,世界はベトナム戦争の最中にあり,日本では学生運動,そして三島由起夫の割腹自殺などがあった年でした。そういう時代を背景に誕生した理由ではありませんが,少なからず時代の影響を受けたものでありました。

「創造市場」という名はその昔,創立メンバーが芝居や音楽など総合的に芸術を追求する集団としてつけられた名だそうです。もともとこの劇団は,音楽や文学,絵画などの仲間が集まり,ギターや絵筆を持つ手を台本に持ちかえてのグループでした。初演はオリジナルの脚本で「雪の降る町」,そして同じくオリジナルの「風狂・風狂」を,45年,46年と上演し,自然のうちに活動が無くなってしまいました。

しかし,49年になると一つの転機が訪れました。初代代表の小野公士氏を中心に菊間氏等が再結成に向けて動きだしました。しかし当時の事です。稽古場も見つからず,芝居の「いろは」を習う人もいません。でも団員一丸となり一つの目標に向かっていくうちに,連帯感が生まれ,他のものではなく芝居というものを中心とした考えが芽生え、毎年コンスタントに公演を行なうようになっていったのです。この頃の稽古場は土浦公民館や青少年ホーム,道具作りは団員の家の庭先に作業灯を点して徹夜で公演前日につくるなど,今では考えられない活動をしていました。その後も活動は続けられ,毎年新しい作品に取り組み,稽古場も一つ所に落ち着き活動を繰り広げておりました。

創立10周年を迎える頃になると,顔ぶれも2/3程変わり,代表も小野氏から変わって,本公演と題した文化祭公演への参加も定着し,団員の数も増えてまいりました。そうした中で総力を結集して作られた作品「羅生門」はその集大成といってもよい大きな作品でありました。しかし,その作品をきっかけに「やる事はやった」という満足感から活動はマンネリ化し公演を行なうことすら義務的に考えるようになってしまいました。

しかし,そこでもう一つの転機がありました。それは科学博の後,昭和61年に訪れました。劇団創造市場も15年余りを過ぎ,演劇に対しての取り組みや情熱が薄れてゆき,活動自体にも活力がなくなってしまいました。「解散か?それともこのまま続けるか?」大きな岐路に立たされました。もうすでにこの時,在来の団員には選択をする力さえ残っていなかったのかも知れません。その時こんな考えが頭をよぎりました。

「誰か新しい人達に劇団の運命を委ねてみよう」そう考えると事はするすると進んでいきました。まず,情報紙,口コミ,ビラ等で宣伝,反応も上出来でした。一人,また一人と劇団の戸を叩く若い人達が集まってきました。劇団を取り巻く環境にも変化が出てきました。今までの公民館をまわって稽古場を探していたのが中川商事社長の中川清氏の御協力により真鍋の真延寺の仮のお堂が借りられるようになりました。協力して下さる人も増えていきました。「プロジェクト・レビュー」の関さん,新芸術の相馬さん等々,プロとして芝居の世界に生きている人達の影響は大きいものでした。失いつつあった情熱や活力を新人に与えたことはもちろん,我々古い団員達も同様でありました。良い演劇を創り喜んでもらいたい。そういう思いが次々と作品を作り上げて行きました。

昭和61年以降、太宰治の「おとぎ話」を初めにミュージカル「ファニー」等を上演し、土浦で開催された子ども芸術祭には唯一アマチュアとして参加し,堂々「知事賞」を頂きました。もう劇団には解散という言葉はありません。これからどういう芝居を繰り広げよう。そんな思いが団員達の心の中に満ちあふれていました。真延寺を劇団創造市場専用の稽古場として事務所を置き,電話もひきました。劇団は益々活気を増し,1年の間に6本の芝居を劇場やアトリエとなる稽古場で上演しました。そして今,我々は地元土浦市だけにとどまらず,広い地域での活動を目指し,より良い芝居をご覧になって頂く為,団員一丸となり精進していくつもりです。

Nanoka Ryouchi
稜地 一週
土浦在住。劇団創造市場代表。土浦一高を経て中央大学へ。高校時代に演劇をはじめ、演出を手がける。大学劇研で「戦場のピクニック」など十数本を演出。かたわら舞台芸術学院において演出を学ぶ。大学在学中に劇団創造市場の役者として別役実の作品に出演。その後、劇団創造市場代表となり数十本の作品を演出する。子ども芸術祭演劇部門茨城県知事賞受賞。常陽新聞文化厚生事業顕賞受賞。

(以上、公演パンフレットより)

茨城県土浦市を拠点に活動する社会人劇団